神は存在するのかという議論が食い違う理由
「神は存在するのか」という議論が人によってなぜこんなに食い違うのだろうと疑問になったことはありませんか?
一つの結論をここで提示したいと思います。
なおここでは、「神が存在する」とも「神は存在しない」とも結論付けはしません。
あくまでも「なぜ神の存在について人によって意見が別れるのか」ということついてのみ結論を出したいと思っています。
ちょっと数学の知識を使いますがググればわかるようなものばかりなのですんなり読めると思います。
ズバリ結論は、、、
「神」という言葉の定義を共有できていないために議論の食い違いが起こります。
多くの人は「神は存在するのか」という部分にのみとらわれて、「神」という言葉の定義をあまり気にしません。
実は「神は存在するのか」という議論の食い違いは「神」の定義の違いからきていることがほとんどです。
神の定義を「雲の上に住んでいるすごく大きな人」という定義をしている人と、「自然現象のメカニズム」という定義をしている人とでは、「神は存在するのか」という疑問に対することは異なってくるでしょう。
「神とは何か」という公理を共有することなくして、「神は存在する」あるいは「神は存在しない」という命題を議論することはできません。
(命題:真偽の判断の対象となる文章または式)
(公理:その理論の出発点として、論証ぬきで真だと仮定し、他の命題の前提とする根本命題)
「二乗すると負になる数は存在するか」について考えてみましょう。
この「数」を「実数」だとみなしている人からすれば「二乗すると負になる数は存在しない」という意見を持つでしょう。
一方、この「数」を「複素数」だとみなしている人からすれば「二乗すると負になる数は存在する」という意見をもつでしょう。
神の存在に関する議論も似たような構造を持っています。
「神の定義」を共有していないだけで「神の存在するのか」という意見が食い違ってきてしまいます。
相手と意見が合わないなと思ったときは言葉の定義にたちかえってみるのがいいかもしれません。